北九州発の終活情報誌
「もしもの広場」
真夏の憂鬱
毎年、この時期になると気分がふさぎがちになることが増えます。
それは、誰にも看取られることなく死亡し数日が経過して、ひどく傷んだ状態で遺体が発見される場面に遭遇する機会が増えるからだと思います(いわゆる孤独死)。
私には、七十歳を越えた姉がいます。その姉に「姉ちゃんも独り暮らしやから気をつけな。」と言ってもピンとこないようなので、孤独死の方をお迎えに行ったときの状況を話ししました。
看護師をしていた姉ですら猛暑の中で数日間放置された遺体のむごさはよくわかっていない様子。
人体に詳しい看護師の姉がそうなのだから、一般の方にとって「孤独死」はやはり他人事なのかも知れません。同じ孤独死のお迎えでも、一軒家より集合住宅での孤独死の方がより悲惨だと感じられます。
それは、周りの人々の目がその方に届かず、孤立した生活であったことが窺い知れるからです。
また、警察からの突然の連絡で孤独死の現場に立合い、愕然としている肉親の姿を目にすることもあります。核家族化、町内のお付き合いが希薄になった現代では、孤独死が更に増え、このような悲しい状況に出会うことがますます増えていくと想像できます。
私は、姉に「肉親が遠くに離れていても、毎日連絡を取り合っていれば悲惨な状況を避けることができる。
姉ちゃんも毎日子供たちと連絡しあったら・・・」と伝えました。 日ごろ、肉親との絆が大切だと思い知らされているからです。
また、たとえ肉親と連絡が取れなくても、「ご近所の方々と日々のお付き合いさえあれば」とも考えます。
二年ほど前、姉と私で母を看取り葬儀をしたことがきっかけとなり、四十九日、初盆、一周忌、三回忌と姉弟が出会う機会が増え、その間も行き来が頻繁になりました。 このように葬儀には家族の絆、肉親の情、縁故の人々の安否を確かめ温めあう面があると感じています。
また、肉親でなくても、故人を中心にお付き合いのあったご友人方が一同に会する場でもあると思います。これは、大切な人が遺してくれた最後の贈り物だと私は感じています。
この贈り物を受け取り、次に渡していくことで孤独死のような悲惨な状況を少しでも減らすことができるのではないかと思います。