北九州発の終活情報誌
「もしもの広場」
とある坊主のつぶやき
ある所で、このような記事を見た。
〜〜直送(ちょくそう)とは、今から5〜6年ほど前に造られた言葉で、通夜や葬儀といった儀式を行わず、原則的に火葬のみで済ませる葬儀スタイルを言います。
火葬だけの葬儀スタイルは過去にもありましたが、それまでは金銭的な問題を抱えている人や生活困窮者など、どちらかというと訳ありケースが主。
それが今ではすっかり新しい葬送方法と認識され、「じきそう」と読む人も減り新語として定着してきました。〜〜
(※以下は、とある僧侶のご意見より)
新語として定着?
一部の葬儀社が流行りにしているだけじゃないか。いいよ、勝手にやってろ。でも、一言物申す、「葬儀」という言葉を使うな。「葬」の字はまだ我慢できる、 葬る(ほうむる)という意味だから。
しかし、葬儀とは故人のためだけでなく、残されたもののために行われるという意味合いが強くある。残された人々が人の死をいかに心の中で 受け止め、位置づけそして納得するか、これを行うための援助となる儀式が葬儀である。
それを手助けすのが僧侶であり、今の時代は葬儀社の面々でなければならないはずだ。
しかし、そうやって処理された遺体(あえてこう言うが)を、寺の墓、納骨堂に入れさせてくれとと言う。寝言は寝て言うもんだ、寝てろ。寺はお骨預かり所でも一時保管庫でもない。
僧侶を呼ばず、葬儀もしていないのならば、それは無宗教と同じである。よって、散骨するなり、自宅に置いとくなり、自由にしたらよい。そんな乱暴な!…といわれても 遺族が故人に対して乱暴なんだから仕方が無い。
葬儀を出せば金が掛かる、確かにそうだ。寺への布施、葬儀社の支払い、色々と入用になる。コレは僧侶にも葬儀社にも悪い部分はある。
うちの寺で葬儀をするならお布施は50万円以上、別途戒名料が50万円(もっとぼったくる輩もいる)なんてアホな事をほざいている僧侶は沢山いるし、葬儀社にしても、言葉巧みにオプションを勧めて 気が着けば当初の見積金額はなんだったんだ?とビックリする請求書を見せられたりする。ならば相談すればいいのだ、僧侶にも、葬儀社にも。
「これだけしかないんだがどうかお願いできませんか?」と「全然良いですよ!ちゃんと送り出してあげましょうね!」と言ってくれる僧侶や葬儀社もまた沢山ある。
もっと真剣に、人が死ぬという事について考えよう。亡くなった人に対して、敬いと感謝の気持ちを持とう。
な〜に格好付けてんだ、綺麗ごと言ってんじゃねぇーよ!と思った あなた、自分の先祖のお骨持ってきて、ゴミと一緒に捨ててごらんなさい?